俺たちのラストエデン
真っ白な部屋の中に彼女はいた。
正方形の部屋の中央には医療用ベッドがひとつ置かれていた。壁の四隅にはカメラらしき機械が取り付けられている。強いアルコールのにおいが鼻につく、病室を思わせるような白い世界の中、カガリはぽつんとベッドに腰掛けていた。
扉を開いて現れたアスランの姿を見て、カガリが目を見開く。
「……なんで」
その声は震えていた。
「なんでここにおまえがいるんだよ……ッ!」
「……」
彼女の明るい橙色の瞳が、絶望に染まる。
悔しげに眉を寄せたカガリに、アスランは何も言えなかった。黙ったままベッドに歩み寄る。同時にカガリが勢いよく腰を上げた。
「おまえ、何考えてるんだよ!? ここがどこなのか――何をするところなのか、わかってるのか!?」
「……わかってるさ」
胸倉を掴んで叫ぶカガリに、アスランは静かな声で答えた。
知っている――知っているとも。
知っていてアスランはここに来た。アプリリウスから離れたコロニーにある、カガリのいるこの研究所へ。
アスランが通されたのはどこを見ても白しかない部屋だった。清潔なはずのその場所はしかし、今の彼らにとっては出口のない牢獄に等しい。
「……なんでだよ……私はもう良かったんだ、諦めてたのに」
そう、彼女はとっくに諦めていた――普通の生活も、自由も、未来も。
カガリの手が震える。アスランの胸元を掴んだままの手に、彼女がすがるように頭を押しつける。
「なんで……おまえまでここに来ちゃうんだよ、アスラン」
「……すまない」
震えるカガリの肩を、アスランはそっと抱いた。
「すまない、カガリ」
呻くような声でもう一度言う。
カガリの気持ちを考えれば、何度言っても言い足りないと思った。
この決断は自分のエゴだ。
カガリの気持ちを踏みにじることになると知っていながらも、選んだ。――彼はカガリを選んだのだ。
カガリがアスランの服を両手で握りしめる。細い肩を、アスランは意識して強い力で抱き締めた。そしてふたたび「すまない」と口にする。
「――俺はこれから君を抱く」
カガリはついに声を上げて泣いた。
彼らが初めて得た熱は、痛くて苦しくて、切なかった。
◇
アスラン・ザラはザフトの軍人だ。
アカデミーの頃から優秀な成績を納め続けた彼は、エースパイロットとしてザフトの赤服に身を包み、若くして戦場に立っていた。
ナチュラルがプラントに核を撃ち込んでから泥沼にはまり続けている戦争は、今なお終わる気配を見せず、さらに悪化しようとしている。その戦線に彼も身を投じ、モビルスーツのパイロットとして連合軍と戦い続けてきた。
一ヶ月にわたる遠征任務からようやく帰ってきたのが、つい半日ほど前の話だ。
宇宙において、いつ出撃になるかわからない緊張状態に晒される日々からやっと解放され、つかの間の休息を与えられた。
――そんなときだ、彼が彼女と出会ったのは。
アスランが基地の隅で怪しい影を見つけたのはたまたまだ。
報告や雑事を終えて敷地内にある寄宿舎へと帰るまでの短い道のりに、その人物はいた。
「……なんだ、あれは?」
アスランはじっと観察してみたが、その人影はこちらに気付く様子もなく、建物の影から周囲をうかがっている。
身長は彼よりすこし小さいくらいで、体格からしてまだ若く、あまり鍛えているようには見えない。軍の基地には不相応な私服姿をしていた。帽子を深くかぶっているため顔は見えなかったが、それがいっそう怪しさを増している。
関係者であれば基地内をこそこそと動き回る必要はないはずだ。軍服を着ていないし、ゲスト用の入場証も身につけていない。
――まさか、スパイかテロリストか?
その考えに思い至るのは自然の流れで、同時にアスランは動き出していた。
武器は携帯していないが、対人戦闘ならば腕に覚えがある。気づかれぬように気配を殺し、足音をしのばせて、非常階段の隅に身を隠している不審者ににじり寄った。
「――うわあっ!?」
あっという間に距離を詰め、気づかれる前に腕をねじり上げると、不審者は悲鳴を上げた。
「何者だ、おまえ!」
不審者はアスランの軍服を見るとぎょっとし、逃げだそうともがきだす。それをしっかりと押さえ込んだ。
「所属と名前を言え!」
「は、離せよ! 私は怪しいものじゃない!」
「見るからに怪しいだろうが!」
じたばたと暴れる不審者の動きはどう見ても素人のもので、半ば錯乱したように叫ぶ声は高い。スパイには到底見えないから、ただの子供がいたずらに潜り込んだのかもしれない――そんな考えがアスランの力を緩ませた。
その隙に不審者が彼の腕を振りはらい、逃げようとする。
「待て!」
アスランは反射的にそれを追い、再び不審者を捕まえた。手加減をしながらも地面に引き倒し、押さえ込もうとしたそのとき――。
「きゃあ!?」
「――は?」
下方から聞こえた悲鳴に、アスランは動きを止めた。
取り押さえた体にまたがりながら呆然と相手の姿を見る。引き倒された拍子に帽子が落ちて、輝くような金色の髪が露わになっていた。
現れた顔はやはり若く、自分と同じくらいの年齢に見える。中性的な顔立ちをしていたが、先ほどの悲鳴は高く――何より、不審者の胸を押さえつけるアスランの腕に、柔らかな何かが存在を主張していた。
「……女?」
思わずこぼれた言葉に、不審者――少女がわなわなと体を震わせる。そして――。
「ふざけるなよ、おまえっ!!」
呆然としているアスランの頬に、思い切り拳をたたき込んだ。
ザフトの敷地内で怪しい人物を発見し捕まえたら、ただの世間知らずの少女だった――そんな馬鹿な話があるだろうか。
残念ながら事実であり、件の少女はアスランの目の前にいて、今もなお彼の頭を痛ませていた。
「……で、おまえは何者なんだ?」
「だからさっきも言っただろう。私はキラの双子の姉だ」
カガリと名乗った少女は、何故かとても尊大な態度で答えた。
アスランに見つかり拘束された際にはこれでもかというほど暴れ、彼の左頬を殴って痛々しい痣を残したくせに、今は悪びれる様子もなくけろりとして彼の部屋にいる。
明日からせっかくの非番だというのに、いったい自分は何をしているのか。
思わず頭を抱えたくなったが、そうしたところで現状は何も変わらないため、彼はしぶしぶ少女に向き直るほかなかった。
どう考えてもスパイには見えなかったので、騒ぎになる前に宿舎に連れ帰ったはいいが、カガリはよりによって自分をキラの姉だと言い張った。アスランの親友である少年キラ・ヤマトの身内である、と。
「おまえ、キラの知り合いだったんだな」
カガリはというと、アスランがキラの知り合いだと知ると同時に態度を軟化させた。――軟化させた上での、この尊大さだ。
アスランは痛むこめかみを押さえつつため息を吐いた。
「知り合いどころかアカデミーの同期でルームメイトだよ、俺たちは」
「じゃあここはキラの部屋でもあるのか?」
カガリは物珍しそうに部屋の中を見回す。放っておけば同居人のせいですぐ散らかる部屋を、常にアスランが片付けているため、男兵士の部屋にしては汚くはない。しかし仮にも異性であるカガリにまじまじと物色されるのは複雑な気持ちがして、アスランは別の話を持ちかけた。――というよりこちらが本題だった。
「俺はキラとの付き合いは長いが、姉がいるなんて話は聞いたことがないぞ」
「それはそうだ。私は世間的にはいないことになっているんだから」
「どういうことだ?」
「そのまんまの意味だよ。私は生まれなかったことになっているし、私のことは誰も知らない。だからキラも私の話をしてないんだろう」
「いや、俺が聞きたいのはそういうことではなく……」
どうすれば『生まれなかったこと』になる人間などができるのか、その経緯を知りたかったが、アスランはやむなく断念した。
――この様子じゃ聞いても無駄だろうな……。
直感的にそう思う。大事なところがいい加減なあたり、確かに彼のルームメイトと通じるところがあるような気がした。
「じゃあ、質問を変えよう。おまえは何をしにきたんだ?」
「決まってるだろう。キラに会いに来たんだ。キラはどこにいるんだ?」
「キラなら今はいないぞ。宇宙へ遠征に出ている。あと三日は帰らない」
初めてカガリの様子が変わった。それまではどこか偉そうに余裕ぶっていた少女が、途端に顔色を曇らせる。
「……そうか、キラはいないのか」
「おまえが本当にキラの姉で、身内として会いに来たなら、はじめから正規の手続きをしてから訪ねるべきだったんだ。そうしたらキラの予定も知らされてこんな無駄足を踏まずに済んだのに」
「だからそれは無理なんだって。そんなことしたら足がつくだろうが」
アスランのもっともな指摘に、カガリがむすっとした様子で反論した。
カガリはそれきり黙ってしまって、気弱な表情で何かを考え込む。先ほどまでとはうってかわった彼女の様子に、アスランはわずかに動揺した。
ややあって、カガリが落胆したように肩を落とす。
「本当にキラは帰ってこないのか? 連絡もとれないのか?」
「難しいな……俺たちは軍人だ。命令には逆らえないし、俺にはあいつを連れ戻すような権限はない」
「……そうか。じゃあ無理だな。三日も待ってたら連れ戻されるに決まってる」
肩を落としたカガリが、アスランの目には今にも泣き出しそうに見えた。
「無理って……何がだ?」
カガリはアスランの顔をちらりと一瞥し、一度目を伏せてから、ぽつりと口を開いた。
「キラと一緒に逃げること」
――このときカガリが、ここに来るためにどれほどの勇気と決意を要したのか、後にアスランは痛いほどに知ることになる。
「――今日は、私とキラが自由になれる最後のチャンスだったんだ」
***
カガリは狭い世界の中で育った。
正確に言うなら、カガリが暮らしていた研究所はとても大きな施設だった。プラントでも有数の敷地の広さと規模、設備を誇る研究所は、しかしそこから出ることが許されなかったカガリにとっては、とても小さく息苦しい世界に思えた。
その小さな世界には、カガリとキラと母のヴィアしかいなかった。ヴィアがいなくなってからは、いよいよキラとふたりきりの世界になった。
それでもよかった。母がいなくなったのは寂しかったが、カガリにはキラがいた。双子の弟で、自身の片割れとして、いつでも一緒にいたキラ。泣き虫で、おくびょうで、でも誰よりもやさしい少年が、カガリは大好きだった。どれだけ寂しくても、怖くても痛くても、キラがいれば平気だと思えた。痛くて泣くキラを隣で励ましてあげられたら、そっと寄り添って抱き締めてあげられたら、カガリは自分の痛みだって耐えられたのだ。大切な半身さえいれば、弟を守って生きていくのだと思えたから。
しかし彼をも奪われたとき、カガリは悟った。
彼女自身には人としての価値などなかった。カガリはキラの人質となる存在であり、自分たち双子は研究者である父親の実験台に過ぎなかったのだと――。
あのキラが、誰よりも争いを嫌う弟が軍人になったとき、カガリは目の前が真っ暗になるかと思った。温厚で、いつも気の強いカガリに手を引かれるままにしていた優しいキラが、モビルスーツのパイロットになるなんて。
然してそれはキラの望みではなかった。キラはただ片割れのカガリを守るため、そのためだけにザフトに入ったのだ。父に命じられるがまま、その存在を――スーパーコーディネイターとしての力を使うため、父の研究成果を示すため、キラは何よりも嫌った戦争の世界へと足を踏み入れることになった。
一方のカガリは、キラがアカデミーに入るために研究所を発ったあとも、ひとり狭く冷たい世界に取り残された。数年して、キラが無事にザフトのパイロットになったことだけは聞かされたが、それ以降は弟の話はカガリの耳に入ってこなかった。何も言われないということはキラが生きているということだと察したカガリは、閉ざされた世界の中で、ただ遠く離れた宇宙の向こうの弟を偲ぶしかなかった。
厳重なセキュリティに囲まれ、ただ体の健康状態だけを気にされ、食事も温度も生活習慣も、何もかもが管理され尽くされた日々。小さいころに何度もキラと外に出ようとして失敗し、怒られた経験のあるカガリは、もう脱走を試みようとはしなかった。たとえ理不尽に片割れを奪われたのだとしても。
しかしそれは彼女が諦めたからではない。
カガリはただ待ち続けた。わき上がる反抗心を抑えつけ、研究員たちに従順に振る舞い続けた。
そうして、ただ一度きりのチャンスが来るそのときを待ち続けたのだ。
――キラとふたりで自由になるために。
そうしてカガリが向かったキラの下宿先で出会ったのは、弟ではなく、キラの親友だという少年――アスラン・ザラだった。
苦虫を噛み潰したような表情をしている少年兵士の横顔を盗み見る。出会ったときにカガリを取り押さえた手は、今はエレカのハンドルを握っており、彼は運転に集中していた。
改めて見ると、アスランはコーディネイターの中でも目を見張るほどの美男子だった。キラも整った顔立ちをしていると思うが、アスランはまた違う魅力を湛えていた。でもキラのほうが絶対カッコイイ、とカガリは心の中でひとり張り合う。
ただ、アスランが秀でているのが容姿だけではないことは、出会ったばかりのカガリにも感じられた。初めて会ったときの身のこなし方や、普段の口振りからも、その秀才ぶりは十分伝わってくる。年齢は同じだというのに、カガリよりも遙かに身体能力が高く――職業軍人だからというだけなく、最初に見たときにエリートの象徴であるザフトの赤服を着ていたことから、同年代でも優秀な部類に入るのは間違いないだろう――聡明であり、おまけに美少年だ。
天は人に二物を与えないというが、人類は同胞に恣意的に二物も三物も与える技術を得た。――それがカガリにはどうにも忌々しかった。
「何を考え込んでるんだ?」
ふいに話しかけられて、カガリは初めて自分がしかめっ面をしていたことに気づいた。あわてて無表情をとりつくろって、景色が素早く流れていく窓の外に目をやる。
「別に。おまえって変なやつだなって思っただけだ」
「おまえにだけは言われたくないな」
すかさず反撃されて、カガリは再び眉を寄せた。
「何が言いたいんだよ」
「交通機関の使い方も知らない、金もろくに持ってない状態であたりをうろうろしようとする奴は、十分変わり者だと思うが?」
ふてくされていたところにさらに追撃され、カガリはもはやぐうの音も出なかった。
そのときのカガリがどんな表情をしていたのか、エレカを運転する傍らで隣を見やったアスランがぷっと吹き出した。声を出して笑い出しそうになるのを耐えるように噛みしめている様は、先ほどまでの嫌みな人柄とは違って、彼を年相応よりも幼く見せた。
そんな姿を見ていると、カガリが抱える憤りもどうでもよいもののように思えてしまう。なんとなく毒気を抜かれて、大きく息を吐き出しながら視線を窓の外に投げた。
「……おまえ、なんで私につきあってくれるんだ?」
カガリの疑問に、アスランは前を向いたまま答えた。
「さっきも言ったとおり、ろくに金ももってないおまえを放っておくわけにもいかないだろう。それに、仮にもキラのきょうだいだという人間を邪険にはできないからな」
「なんだ、やっと信じたのか?」
「俺はおまえみたいに平然と危なっかしくていい加減な人間を、キラ以外には知らない」
「どういう意味だそれっ」
あまりにもあまりな言い草にカガリはすかさず反論するが、アスランは素知らぬ顔で聞き入れようともしなかった。
カガリに対して粗雑な態度をとる彼はしかし、言葉に反して今はカガリの足となっている。
キラに会えないのならば行きたい場所があると言って去ろうとしたカガリに、アスランは移動手段として自分のエレカを持ち出してきたのだ。
カガリは研究所の外にほとんど出たことがない。だから外の世界を知らない――というより、本やテレビから一般的な知識だけは得ているが、経験したことがないのだ。ごくまれに外出したこともあったが、それも今よりもっと幼いころで記憶が定かではない。カガリの話を聞いたアスランは、その知識の偏りようにしばらく頭を抱えたものだった。
彼の態度に腹が立ったものの、アスランの助力は素直にありがたいものだった。どういった風の吹き回しでカガリの手助けをしてくれているのかはわからない。彼の言うようにキラの身内だからなのか、はたまた別の理由があるのか。
窓の外を流れる景色は全てが新鮮なものだった。研究所のあったコロニーは今いる場所のような都市はなく、どちらかというと農業や酪農といった一次産業の盛んなところで、中心部に比べれば街などないに等しかった。その中でも研究所は離れたところにあったので、ビルや建物の建ち並ぶ街中というのをカガリは映像でしか知らなかった。
どこを見ても建物が続き、視線を下ろせば人々が街を歩く姿が見える。しばらくカガリは外の景色を目で追うのに夢中になっていた。その間アスランは何も言わずに運転していた。
ふと後部座席にあるものを思い出す。首だけで振り返り、無造作に置かれた花束を見た。
「あれ、誰にあげるんだ? 誰か眠ってるのか、あそこに」
アスランはまっすぐ前を見たまま、すぐには答えなかった。
花束を買ったのはアスランだ。ややあって、彼が目を合わせないまま口を開いた。
「おまえこそ、なんで集合墓地なんかに行きたいんだ?」
「お母様が眠ってるからだ」
カガリとキラがまだ小さなころに死んでしまった二人の母――ヴィア・ヒビキ。
彼女だけはふたりの味方だった。ヴィアもまた科学者であったが、科学者である前に母親だった。キラとカガリを平等に愛し、実験体でなく我が子として扱ってくれた。科学者としての狂気に染まった夫ユーレンを嘆きながらも、双子の境遇をよくするためにと常に計らいをしてくれた。カガリの数少ない研究所の外での経験はヴィアが与えてくれたものだ。
しかしそうしてキラとカガリを慮ることが母にどれほどの負担を与えていたのか、ヴィアはほどなく亡くなってしまった。葬式ひとつあげることなく、ただ墓石だけが集合墓地に造られたのだという。
キラと外に出たなら母に会いに行こう、とカガリはずっと前から決めていた。
「俺も、母の墓があるんだ。母はユニウスセブン≠ノいたから」
アスランが感情を押し殺した声で言った。
「……そうだったのか」
いくらカガリが世界を知らないとはいえ、その言葉の意味はすぐに理解できた。地球軍によるコロニーへの核攻撃――血のバレンタイン≠ニ呼ばれる悲劇は研究所でも騒がれ、いっそう研究員たちを駆り立てたからだ。
――愚かなナチュラルたちに鉄槌を。許されがたき蛮行に報復を。そのための力を、より強き兵士を。より優れた種を生み出せ、と。
それにより実験が過激化し、何人ものキラの『出来損ない』が生まれる過程をカガリは見てきた。
「――だからおまえは軍人になったのか?」
カガリには隣の少年が研究員たちと同じとは思えなかった。
しかし、アスランは彼女の疑問に首肯した。
「俺にも何かできれば、と思ったんだ」
何か……軍人にできる何かって、なんだ?
戦うこと――ナチュラルを殺すこと?
カガリの中ではそれとアスランがうまく結びつかなかった。このひどく優秀で、無愛想で、それでいてお節介焼きの少年が、軍人になった理由。
しかし現に彼はザフトに入っており、その中でもザフトレッドと呼ばれるエリートパイロットだ。生まれ持った才能と成長の過程で伸ばした技能を、戦うために使っている。
それはキラと同じだ。
カガリはキラがその才能を戦うために使うと知ったとき、ひどく嘆いた。そんなことは間違っていると思った。
では、アスランは? カガリの無事と引き替えに選ばされたキラとは違い、彼は自ら進んで血なまぐさい道を選んだ。それが間違っているのだと、果たしてカガリに断言できるだろうか。
戦うために生まれたキラ。
生まれてから戦うことを選んだ――アスラン。
広大な集合墓地を見て、カガリは途方に暮れた。
陽当たりの良い丘に造られた集合墓地には視界に入りきれないほどの墓石が並んでいる。その半数以上が血のバレンタイン≠フ犠牲者のものであり、訪れた人間に戦争の悲惨さを訴えかけていた。
そして瞬時に思い知った――この中からただひとつきりの母の墓を探し出すことなど、到底不可能であることを。
呆然としたまま周囲を見渡すカガリに、エレカを駐車してきたアスランが気遣わしげな視線を送る。
「……知らないのか、場所」
「知らない……直接来たのは初めてなんだ」
それどころか、このコロニーに来たこと――ひとりで外に出たこと自体が初めてだった。
母の墓すらわからないなんて。
そう小言を言われることを覚悟していたが、予想に反してアスランは何も言わなかった。
不意に手首が握られる。大きくかたい手はアスランのもので、彼は隣に並ぶと自分よりも少し身長の低いカガリを見下ろした。
「母のところに行きたいんだ。ついてきてくれるか」
「……うん」
おとなしく頷いたカガリの手を引き、アスランは歩き出す。
彼はカガリと違って迷いなく道を進んだ。この広い墓地の中でちらとも迷わないあたり、何度も母親のところへ訪れていることがうかがえる。
黙ったまま数歩先を歩くアスランの背中は大きく、カガリに弟の姿を思い出させた。記憶にあるキラは今のアスランより少し幼いものだ。もっと幼いころは、相手の手を引いて歩くのはカガリの役割だった。それがいつしか、キラがカガリのために戦場へ身を差し出すようになってしまった。
今のキラはこれくらいに成長しているのだろうか。年頃の少年の成長は早い。出ていく直前のキラはカガリとそう変わらない身長だったが、今はもっと大きくなっているかもしれない。それをカガリは知らない――知ることができない。
きっとアスランは知っているのだろう。キラと親しいアスランは、一緒に暮らして、いつでも話ができるにちがいない。対して、カガリは研究所から出ることもできなかった。
ぐるぐると考え込むうちに胸が痛くなってきて、カガリはそれをごまかすように口を開いた。
「……父は生きてるけど、全然私と話をしないんだ」
「うん」
「私だけじゃなくて、たぶんキラもなんだけど。父は私たちを自分の子供なんて思ってない。ただ使い道のある道具くらいにしか思っていないんだ」
「さっき連れ戻されるって言ってたのは、父親に?」
「そう。きっと今も私を探してる。私が反発することを父は許さないからな」
ユーレン・ヒビキにとって大事なのは、自分の子供ではなく、貴重な実験体なのだ。父と親子らしい会話などしたことがない。口をきくのは検査や生体実験の最中などに体の調子や変化を問いかけられるときだけだ。それもかなり事務的な口調で、必要最低限の話しかしない。
きっとカガリが娘として話しかけたところで、ユーレンは返事のひとつもしないのだろう。
「……俺も似たようなものだよ。たとえ俺が家出したところで、父上は探すことすらしないだろうが」
「アスランも?」
「父とはもうずっと口をきいていない。あの人が俺に関心を持つことなんてない。俺がアカデミーに入って主席になっても、ザフトで赤服を着ても、父には全てどうでもいいことなんだ。あの人の頭の中には仕事のことしかない」
――それと、復讐と。
アスランの声には諦念が混じっていた。何年も淡い希望を持ち続けて、それらをことごとく裏切られて、そうしてやっと悟ったような、あきらめの声だ。それはカガリにも痛いほどわかる感情だった。
実の親にないがしろにされる痛み。
どうしようもない孤独。
カガリがキラの存在によってようやく埋めてきたものを、アスランはひとりで抱えているのだろう。もうずっと、長い間。
ふと前を行くアスランが足を止める。気付いたときにはかなりの距離を歩いており、ふたりの前にはひとつの石があった。
レノア・ザラ。
そう刻まれた墓石を、アスランは表情を変えることなく見下ろす。
「――でも、母上は優しかったよ」
そのとき彼が浮かべた、困ったようなぎこちない笑みが、まるで泣き出す寸前のものに見えて、気付いたときにはカガリは泣き出していた。
理不尽な運命を思い、遠く離れた母とキラと思い、――ひとりきりで生きてきたアスランを思い、カガリは泣いた。アスランの肩にすがりつくようにして、何年ものあいだ我慢し続けていた涙を流しきるように、声を上げて泣いた。
アスランは供え物の花束を握ったまま、ただじっとカガリを見つめていた。
彼女の泣く場所を壊さぬように。
***
「これからどうするんだ?」
墓参りの帰り道、人気のない丘を歩きながらアスランが聞いた。
母の墓を見つけられず落ち込んでいた上に、年甲斐もなく大泣きしてしまったのを見られてしまった手前、どうにもバツの悪い気持ちを捨てきれず、カガリは少しのあいだ返事に困った。
「……どうしようかな。もう他にやりたいことなんてないし、キラに会えないならどうしようもない」
カガリにとってはキラに会うことだけがすべてだった。今日一日のために何年も堪えしのんできたのに無駄足になってしまった以上、どうしても投げやりになってしまう。
そこにアスランが何気なく言った。
「じゃあ、うちに来るか?」
「え?」
まるで明日の天気の話をするかのように自然な流れで出された提案に、カガリは素っ頓狂な声を出してしまう。
当のアスランも、自分で言っておきながらその提案に困惑しているのか、決まり悪そうに目をそらしていた。
「……おまえのところに?」
「いや、その……行くところがないんだろう? それなら俺の部屋――というかキラの部屋にいたらいいんじゃないか。俺とあいつはルームメイトだし」
「でも、私は軍の人間じゃないし……」
「たぶん大丈夫だ。軍の宿舎といえども人は多いからみんな知らない顔がいても気にしないだろうし、おまえはキラに似ているからごまかせるだろう」
アスランはどう見ても規律を重んじる人間で、自ら破ろうとする人柄には見えなかった。それなのにそんな提案をしてきたことに、互いに驚きが隠せずにいる。
確かに行くあてのないカガリにはアスランの提案がありがたかった。しかし即諾できるほどには、カガリとて遠慮の知らない人間ではなかった。
惑うように視線をおよがせるカガリに、アスランが言い募る。
「連れ戻されるって言っていたけど、軍の宿舎ならそう簡単に部外者は入れないから、うまく潜んでいれば見つからない。そうしたら三日後にはキラが帰ってくる」
カガリははっと顔を上げた。思わず震える声が出た。
「……キラに、会えるのか?」
「確証はないが、可能性は十分にある」
それは願ってもないことだった。
本当はすぐにでも飛びつきたかった。しかしそれでも迷いを捨てきれないのは、カガリもまた長年のうちに希望を持つことに臆病になってしまったからだろうか。
カガリの表情を見て何かを察したアスランは、安心させるようにやわらかくほほえんだ。それはカガリが初めて見る表情だった。
アスランがカガリの頭に手を置く。それはひどくカガリの心を安らがせた。
「キラに会いたいんだろ?」
「……会いたい、キラに会いたいっ!」
「じゃあ、決まりだな」
思わずにじみ出た涙を乱暴にぬぐって、カガリは何度も頷いた。
アスランはカガリが落ち着くまでのあいだ黙って待ち続け、それからカガリの手を引いて歩き出した。アスランはごく自然な動作でカガリの手首を握っていたが、カガリもそれを嫌だとは思わなかった。
エレカに戻ってからはさすがに手を離したが、その瞬間ちくりと胸が痛んで、カガリは不思議な気持ちになった。
――小さいころ、キラの手をひいてたのを思い出したからかな。
そんなことを思いながら、行きと同じように車の窓から外へ目をやる。
帰る道すがら、ふたりはいかにしてカガリの存在をごまかすか話し合った。
「帽子をかぶってたらばれないかな」
「キラの服を着てたらいいんじゃないか? 顔立ちも似てるから気付かれないだろう」
「そんなに簡単に行くかぁ?」
「現に俺はさっきおまえに会ったときに男だと思――っ、オイ、運転中に殴るな!」
「うるさいこの馬鹿!」
「……あぁ、そうだな、あとその世間知らずを何とかしてくれ。宿舎の中ですら迷子になって帰れなくなりそうだ」
「おまえ、私のこと馬鹿にしてるだろ!」
カガリが噛みつくと、アスランは笑い声をかみ殺すようにして肩を震わせていた。
それを失礼だとは思ったが、カガリはそれ以上咎めなかった。こうして言い合うことが、相手が笑うところを見ることが、いつの間にか楽しいと思うようになっていたからだ。
アスランとのあいだにある空気は、カガリにとって居心地の良いものだった。キラと別れてから、本当に久しぶりに味わった感覚だ。
気付けばカガリは笑っていた。知らない景色を見ながら、今からアスランの部屋に行って、彼のことを知っていく――不思議とそれは、とても魅力的なことに思えた。
それからの数日間は、彼らにとって決して忘れられない輝かしい日々となる。
たとえそれが、後に痛みを伴う記憶になったとしても――。