さよならトロイメライ
 背後から聞こえた布擦れの音に、アスランは思わず舌打ちしそうになった。
「どうしたの?」
 シーツの上で身を起こした裸身の女性が問う。ねっとりとした甘い声を出した彼女をアスランは振り返らず、首元まできっちりとシャツを着終えて腰をあげる。
「待って。どこに行くの。そんなに急いで帰ることないでしょう。ねぇアスラ、」
「やめてくれ」
 縋りつこうとした女を背を向けたまま拒絶すると、女が身を竦ませる気配がした。視線だけで肩越しに彼女を見る。女は肩につく程度の金の髪を持っていたが、その声は高く――かつてアスランの耳に馴染んだ声とは全く違った。髪もよく見れば全然違うな、と冷めた思考で思う。
「君にファーストネームで呼ばれる筋合いはない。それと、もう連絡してこないでくれ。二度と会うつもりはない」
「え……そんな、どうして」
「声を出すなと言った。振り返るなとも。君はすべて破った。次はない」
 絶句している女に、アスランは畳み掛けるように言う。
「はじめからそういう契約だっただろう」
 体だけでいいから抱いてくれ。
 そう言いだしたのは女の方だ。アスランはそれをいくつかの条件を出した上で受け入れた。
 女が言葉を失っている間に、財布から多めの札を抜いてサイドテーブルに雑な動作で置く。そしてアスランはホテルを出た。
 まだ深夜の時間帯である街中は涼しい風が吹いているが、彼の心の内は晴れなかった。それどころか、どうしようもなくいらいらして仕方がない。それを少しでも晴らすために――ごまかすために行為をしたというのに、まるで逆効果だ。
 名を呼ばないこと。
 振り返らないこと。
 他人に口外しないこと。
 声を出さないこと。
 アスランがやめると言ったらすぐに関係を切ること。
 それが彼の提示した主な条件だった。女はそれでもいいと言い、縋ってきた。
 気分ではなかったけどそれを受け入れたのは、女が短い金髪だったからだ。そして、アスランよりも十センチほど低い身長。それに淡い期待を持たなかったと言えば嘘になる。
 女を抱く間、彼は追憶にふけった。もう五年以上も前の記憶を。甘く切ない蜜月の時を。
 二度と再び味わうことのないだろうその記憶を、彼は後生大事に頻繁に思い返している。我ながら愚かだと自嘲しながら。
 しかし、今回はだめだった。
 女は何度アスランが咎めても声を出した。高く媚びるような声が気に入らず、途中で萎えなかったことが奇跡だと思える。それに女は細すぎた。筋肉の欠片も見られない肢体に、彼の心はひどく冷めた。――それでも最後までできる程度には、彼は欲と感情を切り離してしまったのだけれど。
 結局、どれもアスランの苛立ちを増すだけだった。
 こんなことをもう何度繰り返しただろうか。
 ひどく冷めた気分になりながらも、きっと彼は同じことを繰り返すのだろう。痛みの伴う甘い記憶を思い返しながら、『彼女』に似た女を抱き続けるのだ。
 このオーブで、決して手の届かない『彼女』を守りながら――。


「おまえ最低だな」
 かつての同僚の詰りを、アスランは黙って受け止めた。とりわけ反論もせず目の前の酒をあおると、隣に座った男が「こりゃだめだ」と肩を竦める。
「まあ、わからなくもないけどさ」
「なにがだ」
「望みの女が手に入らないいらだち?」
 あからさまに眉をひそめてしまったのは反射だった。見るからに不機嫌なアスランの様子に、男――ディアッカは苦笑しながらアルコールの入ったグラスを傾ける。
「しかし、あのアスランがねぇ。まさか女をとっかえひっかえするようになるとは」
「軽蔑したければすればいいだろ」
「まあそう邪険にすんなって。別に俺は責めちゃいねーよ。逆にそっちのが人間らしいんじゃねーの? 昔のお前はちょっと真面目すぎっつーか、潔癖すぎたっていうかさ」
 潔癖。
 ディアッカはそう称した。かつてのアスランを。ただ一人の少女に惹かれ、彼女のために国を捨てた少年を。戦犯の息子だからという理由から戦争に介入し、ただモビルスーツの操縦に長けているというだけで自分に世界を変える力があると驕った愚かな男を。
 あの頃の俺が今の俺を見たらさぞ怒るんだろうな、とアスランは心の中だけで思う。もっとも、かつての自分に殴られるくらいならばその倍は殴り返すが。
 何故あんな愚行を犯したのか、と。おまえがあんなことをしなければ、俺は今でも――。
 顔をしかめたまま押し黙ったアスランを横目に見て、ディアッカは店員にアルコールの追加を頼んだ。仕事で地球に降りてきたはずだが、彼は気にせず飲み明かすつもりでいるらしい。
「俺もさぁ、同じことしたことあるよ。他の女と酒に逃げようとした。でもうまくいかねーんだよな。全然気分も晴れないし、むしろいらいらするっつーか」
 ディアッカは話しながらアスランの空いたグラスを取り上げ、新しいものを差し出す。アスランはそれを素直に受けとり少しの間思考する。
「……ミリアリアのことか?」
「おい、俺が言ってないのにテメエが名前を呼ぶな」
 即座に渋い顔をされたので、悪いと言って軽く謝るが、ディアッカは目をすがめたままだ。
 それはアスランの言葉の肯定を意味した。ディアッカは今でもザフトでイザークと共にプラントを守っており、次期評議員だとも言われているが、仕事にかこつけては頻繁に地球に降りてきている。それが一人の女性に会うためだということを、アスランもいつか誰からか聞いていた。
 一度目の大戦の最中から続く彼らの関係は、未だにひとつどころに収まってはいないらしい。あれから何年経ったかを考えると、ディアッカの気の長さには舌を巻くものがある。
 褒め言葉のつもりでそれを口にすると、ディアッカはさらに苦い表情になった。
「待て。他人事みたいに言ってるけどな、おまえも同じだろうが。俺らよりずっと距離が近いくせにこじれてるぶん、余計厄介なんじゃねーの?」
「……こじれてるとか、そんなんじゃないさ」
 喧嘩別れをしたわけではないし、今も別段険悪な仲というわけではない。おそらくふつうに話せるし、彼女もふつうに接してくるだろう。――それだけだ。それ以上に自分たちの間に特別な感情などない。
 かつての戦友。今は上官と部下。国の代表と准将。
 そう、それだけ。
 それでいいと思っていた。たとえ近くにいられなくても、彼女の国を、彼女を守ることができればと――。
「いい加減、その物分かりの良い男のふりやめたら?」
 アスランの思考を一刀両断したのは、予期せぬ言葉だった。
「俺はやめたぞ。開き直った。そしたら少し楽になった気がする。こればかりは仕方ねーってな」
 ディアッカは晴れやかな表情でそう言った。
 彼らの関係は、少しずつだが変わり始めているらしい。良い方向へ、やっと。
 アスランは何も言えなかった。准将としての自分はきっと彼女の役に立っている。それだけでいいと言い聞かせてきたのに、一方でどうでもいい女を抱いてはいらだつ自分を知っているから。
 口を噤んだアスランのほうを見ずに、ディアッカは小さく笑った。
「――星の数ほど女はいるっつーけどさ。特別なヤツってやっぱ一個しかないんだよ」


 明日の国際会議を狙っている連中がいる。
 その報告を聞いてオーブ軍防本部はすぐに対策をした。会議場の警備を増やし、犯人グループの特定、捜索を行う。幸い会議の前に全員捕縛することに成功し、国際会議は無事執り行われた。
 それでも念のため警備は増やしたままにしており、各国の要人には軍人が護衛につくこととなった。会議の後に行われる夜会でアスハ代表の護衛についたのは――准将のアスランだった。
「久しぶりだな、准将」
「ええ。お久しぶりです」
「今日はよろしく頼むぞ」
 ドレス姿のカガリが微笑むのに、アスランは敬礼を返した。
 彼女が言ったとおり、カガリ本人にこれほど近くで接するのはかなり久しぶりだ。
 あくまで准将と代表という体を崩さなかったが、カガリはかなり気さくにアスランに話しかけていた。敬語と階級がなければ、まるで昔一緒にいたときのように。
「ザラ准将に護衛をしてもらうと、代表になったばかりの頃を思い出すよ」
「また懐かしい話ですね。仕事が嫌になったからと言って、当時のように脱走なさらないでくださいね? 探すのは私なのですから」
「ばか、そんなことするわけないだろう。この状況下で私が脱走なんてしたら世界規模の大問題になる」
「その自覚がおありならひと安心です」
 アスランの軽口に、カガリはむうと眉根を寄せた。その様は十代の頃の彼女を思い出させた。表情豊かで喜怒哀楽の激しかった、強くも脆い少女の姿を。――それに伴う彼の苦く甘い記憶を。
 ふと若い彼女の姿がフラッシュバックして――アスランは表情ひとつ変えずにそれを思考から追い出した。
 違う。カガリはもう昔のままじゃない。その証拠に、彼女は大人になった。大人びた微笑みを浮かべて、昔あれほど嫌がったドレスを着こなし、どんな相手とも対等に渡り合ってみせる。立派な国家元首だ。
 パーティー会場を渡り歩くカガリの後ろについていると、ふと肩を叩かれた。振り返った先にいたのはディアッカだ。プラントの要人の警護をしているらしい。
「よ、ザラ准将。今日は姫さんの護衛か?」
「……失礼だぞ。アスハ代表とお呼びしろ」
「かたいこと言うなって」
 ディアッカは悪びれもなくそう言い、アスランの肩越しに渦中の人を見やった。彼の後ろにいるカガリを。
「さっきおまえと姫さんが話してるの遠目で見たんだけど、おまえが笑ってるの久しぶりに見たよ。おまえ今でもちゃんと笑えるんだな」
 ディアッカは小さく笑いながらそう耳打ちし、去っていった。
 残されたアスランは呆然と立ち尽すしかなかった。
「准将、どうした?」
 呼び声にはっと我に帰る。振り返ると、カガリがそばに立って不思議そうに見上げていた。彼女が先ほどまで話していた異国の要人はいつの間にかいなくなっていた。
「――いえ、なんでもありません。参りましょう」
 アスランは彼女の背に片手を添え、顔を見ないようにしながらエスコートをした。
 きっと今自分は酷い顔をしている。それをカガリに気づかれないよう彼は渾身の気を遣った。


 夜会が無事終了したあと、アスランはカガリをアスハ邸まで送り届けた。
 車のドアを開けると、おぼつかない足取りのカガリが出てくる。ふらついた体を、彼はすぐさま支えた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すまない……少し酔ってしまったみたいだ。ここのところ忙しくてな」
「お部屋までお送りします」
「頼む」
 彼女の肩を支えたとき、その細さに一瞬戸惑った。久しぶりに触れたことよりもそちらのほうに意識がいくほどだった。
 彼女はこんなに細かっただろうか、と思考しかけて、自分がいったい何と――誰と比べようとしていたのかと思い至り、自嘲する。当たり前だ。ずっとほかの女ばかり抱いてきたのだから。
 始めたばかりの頃、それに深い意味はなかった。自分が人目を引く容姿であることは自覚しており――日々の生活の中で自覚をせざるを得なかった――加えてこの若さで准将であり、独り身ときた。女に寄ってくるなという方が難しい。掃いて捨てるほど寄ってくる彼女らを、拒むよりも受け入れる方が楽だと気づいたのはいつだったろう。頑なに拒否し続けるよりも体だけの関係を持つ方が後であしらうのは楽だった。回数の上限をつけた上で一度でも抱いてやりその後遠ざければ、彼女らは離れがたいそぶりを見せながらも以降寄ってこなくなる。それは一種の自己防衛だった。
 そんな中で即物的な快楽を得られるのなら儲けものだ、などという考えは甘かったのだとすぐに思い知らされるようになるが。結局、誰を何人抱いても彼の心は晴れないのだ。その理由なんて――とっくの昔に知っている。
 ふらつく彼女をエスコートし、屋敷まで連れて行く。そのまま彼女を部屋に誘うのにも迷いはなかった。かつては自分も住んでいた場所だ、彼女の部屋の場所などわかりきっている。
 階段の途中で彼女の体がゆらぐ。それをアスランはすぐに抱き留めた。
「代表」
「大丈夫だ、すまない」
 力なく笑う彼女を抱き上げて運ぶべきか、と考えはしたものの、彼は実行しなかった。自分と彼女はそこまでの関係ではないと割り切って。
 ようやく彼女の部屋にたどりつくと、カガリは大きく息を吐いて扉の横の壁にもたれかかった。
「お水をお持ちします」
「いや、いい。ありがとう」
 アスランの提案を彼女は断り、再び大きく息を吐く。アスランはその隣にただ立っていた。
 カガリの顔は赤く、まだ随分酔っている様子が見て取れる。彼女はそれほどに飲んでいただろうかと記憶を遡るも、夜会中に度を超した飲酒をしたそぶりはなかった。少なくともいつものカガリならば足下がおぼつかなくなるほど酔うことのない量だったはずだ。
「駄目だな……今日はハメを外しすぎてしまった。お酒で失敗するなんて、本当に代表首長になったばりのころみたいだ」
「代表?」
 カガリがくすりと含みのある笑みを浮かべ、アスランを見た。
「……アスランが後ろにいると思うと、やっぱり安心するんだ」
 きっと彼女の言葉に深い意図はなかったのだろう。
 数年ぶりに名を呼んだのも、酔っているのとプライベートの部屋にいたことから国家元首としての体裁を保たなくて良いと判断したから。心を許している知己に見せる親愛の証だったはずだ。
 そこに他意なんてなかった。何故ならカガリとアスランはずっと『ただの戦友』であり続けたのだから。前のような近しい関係がなくなっても彼女は何も言わなかった。ただ今の状況に甘んじていた。だからアスランもこれが正しいのだと信じていた。ただの戦友で、ただの上官と部下でいいのだと――。
 それなのに。
 それなのに、君がそんなことを言うから。
『おまえ今でもちゃんと笑えるんだな』
 ディアッカの言葉が脳裏をよぎる。自覚したときの衝撃は計り知れない。だって、ずっと笑うことなんてなかったのだ。意識して社交辞令に笑うことはあっても、無意識に笑うようなことは、もう――。
 気づいたとき、アスランの体は動いていた。
 くぐもった声がすぐそばで聞こえる。驚きに満ちたそれはアスランの口の中へ消えた。
 カガリの体を壁に押しつけ、顎をすくって上を向かせて唇を奪う。胸を叩いてくる腕も無視して、ただがむしゃらにキスをした。
 舌先に感じる濃いアルコールの味に脳の奥深くが侵されていく。暴れるカガリのドレスの布擦れの音と頭に響く水音に夢うつつな気分になる。

 彼女の熱く柔らかな感触を味わいながら、彼は久しぶりに自分の血が沸騰するような興奮を感じていた。
SUPERCOMICCITY関西22で頒布予定の小説本「さよならトロイメライ」のサンプルです。
元はサイトの拍手お礼文として書いた読み切りSSでしたが、完結編を個人誌として出すことになりました。
これを書いてる最中に腱鞘炎になったり入院したりと色々あったので、色んな意味で思い出深い話です。
2016/08/16