世界と彼女と生存理由
「酒の肴に例え話をしよう、アスラン」
カガリはそう話を切り出した。
「一番大事な人と世界のどちらかが救えるけれど、救わなかったほうは確実に滅びるとする。もしそんな状況になったとき、おまえはどちらを選ぶ?」
向かいに座った彼女は俺に問いかけて、手に持っていたグラスの中身をあおる。
俺は質問を口の中で反芻しながら、そんな非現実的な話をするほどカガリは酒を飲んでいただろうか、と頭の片隅で考えた。
「つまり、カガリと世界のどちらかしか救えないという状況になったとき俺がどうするかという話か?」
一番大事な人と言われるとまずカガリのことしか浮かばないのでそう口にしたが、カガリは自分で話題を振ったくせに恥ずかしそうに目を逸らした。
「……おまえがそう言うならそれでいこう。で、私と世界のどっちをとるんだ?」
「世界だな」
五秒ほど考えてから断言する。するとカガリは驚く様子もなく俺を見つめていた。
「だって俺が君をとって世界を見捨てたりなんかしたら、カガリは怒るだろ」
「怒るな、すごく。おまえとは絶交だ」
微笑んだカガリがとても誇らしそうにしていたので、俺の選択は間違ってなかったのだと心の隅で安心する。
カガリが嬉しそうなので、『まずこの場合の「世界」とはなんなのか』とか『そもそも大事な人とやらを救えても世界が滅んでいたならば自分も相手も死んでいるんじゃないのか』などという無粋な疑問は飲み込むことにした。これは酒の席でたまたま話題に上がった例え話にすぎないのだから。
「仮に君を救ったとしてもそれで世界を救えなかったのならば、俺はともかく君が悲しむだろうからな。きっと君は自分のために世界を犠牲にしてしまったことで悔やみ続けるにちがいない」
悔やみ続けて笑わなくなったカガリを見るくらいならば、彼女の理想であった平和な世界というのを代わりに叶えてやりたいと思う。
「それは私に限った話じゃなくて、おまえだってそうだろ」
カガリの言は的を射ていた。
俺はおそらくカガリを救って世界を滅ぼしてしまったら後悔する。そしてきっと二度と自分を許せない。逆に、世界を救ってカガリを見捨てたとしても確実に後悔するのだろう。彼女のいない世界など俺には想像することもできないのだから。
つまり二つの選択肢のどちらかしか選べなくなった時点で俺にとってはおしまいだ。どちらかをとってどちらかを滅ぼすくらいならば俺が死んでどちらも救いたい。そんなことを言ったら呆れられるだろうから口にはしなかったが。
「カガリはどうするんだ? 大事な人と世界を天秤にかけるとしたら」
「大事なおまえと世界のどちらを選ぶかって?」
さっきの仕返しだろうか、カガリは意地の悪い笑みを浮かべてみせた。それに俺はすこしいたたまれない気持ちになる。なんというか、嬉しくはあるんだがむずがゆい。
もったいぶるように数秒あけてから、カガリは答えを口にした。
「安心しろ。迷わず世界をとるよ、私は」
「そうだろうと思ったよ」
「逆に私がおまえをとったら怖いと思わないか?」
「怖くはないが心配になるな。頭でも打ったんじゃないかって」
「……何気に失礼なこと言うな」
「カガリが自分で言ったんだろ」
思わず弁解するが、カガリはしばらく俺を睨んでいた。
それから大きなため息をひとつ。そして本題に戻る。
「私はそういう生き方しかできないんだよ」
「知ってるよ。数年かけて思い知ったからな」
「……今日はなんなんだ、おまえ。何か私に恨みでもあるのか」
「とんでもない。カガリを恨んだことなんて一度もないよ」
強いて言うならカガリではなく世界を恨んだことならある。そんな生き方をカガリに強いた世界を。彼女のおかれた環境を。
「君はそのままでいい。俺はそんな君だから好きになったんだし、守ろうと思ったんだ」
「わかった。おまえ酔ってるな。酔ってるんだな」
「カガリほどじゃないと思うけど?」
「うるさい酔っ払い」
わずかに顔を赤らめたカガリはまた俺を睨んだ。これ以上言うとへそを曲げて部屋を出て行きかねないので、俺は両手を上げて降参のポーズをとる。するとようやく彼女は吊り上げた眉を元に戻した。
そしてソファから立ち上がる。
「──とにかく私は、何と天秤にかけられようが世界をとる。より多くを救う道を選ぶぞ。それが私の信念だから。おまえを見捨てることで世界が救えるなら私はそうするよ」
カガリはグラスに入った酒に口をつけながら俺の横まで歩いてくる。隣に立った彼女を俺は黙って見上げた。
「そして救った世界で、おまえの墓参りに行くんだ」
カガリは優しく笑って俺の髪を数度撫でた。
「平和な世の中の話をしてやる。アスランのおかげで世界が救われたんだぞ、って言ってやるよ」
──もしも、もしも本当に俺ひとりの犠牲で世界を救えるとするならば。俺がいなくなることでカガリの願いが成就すると言うのならば。
それはなんて幸せな話なのだろう。
しかも彼女は俺がいなくなっても俺のことを想い続けてくれるのだという。
「それから……そうだな。私が代表としての務めを終えたあかつきには、天国のおまえのところに行ってやるよ」
「君が? それは困る。後追いなんかしてほしくないからな」
「自殺なんかしないさ。ただ将来寿命を迎えたときに延命治療なんかせずにまっすぐそっちに行ってやるって言ってるんだ。じゃないとおまえ、寂しいだろう?」
「それくらいなら、まあ」
世界のために犠牲になることはいいけれど、さすがにカガリとずっと離れていたらいくら俺でも寂しくなるだろう。だからカガリにほんの少しだけ早く来て欲しい、なんて願うくらいのわがままは許されてもいいのだろうか。
カガリはグラスを顔の横に掲げ、俺を見ながら得意げに笑った。
「それにな、私は決めてるんだ。絶対おまえよりも長生きするって。おまえが死ぬときは私が看取ってやる。私はアスランをひとりで死なせたりなんかしないぞ」
「それは……素直にありがたいな」
「だろう?」
カガリはふふんと満足そうに鼻を鳴らした。
カガリよりも長生きしてカガリを看取ってやりたい、彼女をひとりにして泣かせたくなんかない。そう思う気持ちもあるにはある。だが実際には──歯がゆくも──恐らく俺よりも彼女の方が、強い。
俺はカガリが死んだらきっと何もできなくなるだろう。逆に言えばカガリがいればなんだってできる気がするのだが。
しかしカガリはきっと俺が死んでも大丈夫だ。そりゃあ悲しんでくれるし、泣いてくれるだろう。それでも彼女は俺の死を胸の奥にしまって、また立ち上がるに違いない。そしてまっすぐ背筋を伸ばして、凛とした目で未来を見据えるのだ。俺のように過去に囚われるのではなく。
それでいい。
それでこそ俺の憧れたカガリ・ユラ・アスハなのだから。
カガリはグラスをテーブルに置くと、窓際まで移動した。カーテンを開けて外を見る。そこには夜の闇が広がっていたが、海岸線に沿って幾多もの街の光が灯っていた。
「だから私はおまえでなく世界をとる。それが私の生き方だ。私の生きる理由なんだ」
窓の外に広がっているのはカガリの世界だ。
オーブ国民の生きる証。彼女が何を置いても守ろうとしているもの。
ああ──もしも俺ひとりの犠牲でカガリの大事な『世界』が救えるのならば。
そんなうまい話が本当にあるとしたなら、俺は今すぐこの喉を掻き切るのに。
しかしながらそんなものは例え話の夢物語に過ぎなくて、現実では俺やカガリひとりが死んだところで決して世界は救われない。それどころかカガリが死んだ日には三度目の大戦が勃発する可能性すらある。
そんなことをさせないために──現実に有り得る方法で世界を救うため、平和にするために、カガリは長年奔走している。国家元首になったときから、今でもずっと。
俺はそんな彼女を守り続けるのだ。
カガリのかたわらで、彼女に看取られて死ぬそのときまで。
「なら、どちらにしろ俺たちが一緒に生き延びたまま世界を救うことはできないわけだ」
「この例え話の中ではそうなるな」
俺がカガリを見捨てて世界をとるか、カガリが俺を見捨てて世界をとるか。そのどちらかしか俺たちは選択できない。俺たち二人が共に生きることはできない。
そんな俺たちを第三者が見たら、不幸だと思うのだろうか。かわいそうだと憐れむのだろうか。
俺も手にしたグラスを置いて立ち上がる。カガリの横に移動して、ふたり並んで共に窓の外に目をやる。
海沿いの街の夜景がこんなに綺麗だなんて、俺はずっと知らなった。俺が知っているのはそんな街を焼く方法だけだった。
その美しさと尊さを教えてくれたのは、カガリだ。
「でも、私たちが生きている間に願った理想は同じだった。それってすごく幸せなことじゃないか?」
「そうだな。そうかもしれない」
俺たちの夢はずっと同じだ──死ぬ間際にそう思えたなら、その生は無駄ではなかったと断言できる。きっと俺は満足して死ねるだろう。
それに、とカガリが付け足す。
「死んだあとは、ずっと一緒だよ」
隣に並んだカガリの笑顔は、俺の目にはとても美しく見えた。